春の光が柔らかく差し込む朝だった。
私は、いつものように玄関のドアを開け、リードを手にした。
「りく、行こうか」
呼びかけると、柴犬のりくが尻尾を小さく振って私の元にやってきた。
その足取りは、以前のような軽やかさはもうなかったけれど、それでもりくは、私の横に並び、桜の咲く道を歩くことを嬉しそうにしていた。
私たちの毎朝の散歩は、もう十年も続いていた。

学生だった私が就職し、生活が変わっても、りくとの散歩だけは変わらなかった。
朝焼けの中を歩きながら、私はりくに、仕事のこと、友人のこと、時には誰にも言えない悩みまで話してきた。
りくは何も言わず、ただ隣で耳を傾けてくれた。それが、どれだけ私の心を救ってくれていたか、当時は気づかなかった。
けれど、春が来るたび、りくの足取りは少しずつ重くなっていった。
ある日、りくが足を痛がり、動物病院で診てもらった。
診察室の静寂の中、獣医の先生は穏やかに言った。
「もう、そんなに長くはないかもしれません。でも、好きなことをさせてあげてください。」
私は、胸が締めつけられる思いだった。
それでも、りくが望む限り、私は一緒に歩こうと決めた。
もう、たくさん遠くまでは行けない。
でも、少しでも、りくと一緒に春を感じたかった。
桜が咲き誇る道。花びらが舞い、風が優しく吹く。
りくは時折立ち止まり、私の顔をじっと見上げた。
その目には、「楽しいね」と語りかけるような光が宿っていた。
「また明日も歩こうね。」
私はそう言いながら、りくの頭を撫でた。
りくも、小さく鼻を鳴らして応えた。
その夜、私はりくを抱きしめながら眠った。
そして、翌朝。
りくは私の腕の中で、静かに旅立った。まるで、深い眠りにつくように、穏やかな表情だった。
何もかもが、そこから止まってしまった。
散歩道には、もう行けなかった。
りくのいない朝は、ただの空白だった。
そんなある日、何気なく見たネットで「空でつながる供養」という言葉が目に留まった。
心のどこかで引かれるものを感じて、そのページを開いた。
そこには、私と同じように大切な存在を見送った人たちの想いが、溢れていた。
悲しみ、苦しみ、そしてその先にある、ぬくもり。
私は、りくとの最後の散歩のことを書き綴り、そっと空に手を合わせた。
その瞬間、胸の奥にあった痛みが、少しだけ和らいだ気がした。
それから、私は再び、散歩道を歩き始めた。
りくのリードはもう手にないけれど、風が吹くたびに、どこかでりくが寄り添ってくれている、そんな気がするのだった。
「また会おうね。」
りくの声が、ふと空から聞こえた気がして、私は空を見上げた。
桜の花びらが、そっと頬に触れた。
あの約束は、これからも私の心の中で生き続けていく。
りくと、空でつながっている。そう信じて。


